人と人との関わりにおいて、不調和で緊張感ただよう昨今。
どうしてこんなにも、ギクシャクした雰囲気に日本はなってしまったのだろうか。
その一つの要因として、人への不寛容さがある。
つまり、簡単にいえば、他人に対して厳しいのだ。
対人関係において、礼儀や気遣いは大切である。
しかし、その気遣いが「気を使う」になると、そこに緊張が生まれる。
つまり、相手を思いやる気遣いではなく、相手に嫌われないように、あるいは自分に不都合が降りかからないように気を使うのである。
この場合、恐怖や不安が根底にあるため、相手に気を使っているのに和んだ雰囲気にはならず、妙な緊張感が生じる。
では、なぜ、そこまでして人に気を使うのかと言うと、相手に「寛容さ」を見出だせないからだ。
つまり、こんなことをしたら人に嫌われてしまう、迷惑をかけてしまう、怒らせてしまうと、その人に対して寛容さを見出だせずに、心の狭い人間だと判断してしまう。
では、なぜ、相手に対してそのように判断するのかと言えば、まさに、あなたがあなた自身に対して不寛容だからである。
要するに、自分に対する厳しさを、そのまま他人に対しても適用してしまい、また同時に、他人も同じような不寛容さを持ち合わせていると考えてしまう。
したがって、自分自身に対する不寛容さと他人への誤ったイメージが、対人関係や世間の緊張を生んでいる。
では、なぜ、あなたは自分に対して厳しくなりすぎてしまったのだろうか。
それは、周りの空気を読むことも知らない純粋無垢だったあなたを、受け入れてもらえなかったり、避難されたりした経験があるからだ。
そして、その張本人とは、まさしく親である。
親は子の生命を守るために、時には厳しく躾けることがある。
しかし、その線引きを逸脱して、いつしか子供の奔放さや無邪気さに対しても「ダメダメ」と強烈に制限をかけるようになる。
このとき、子供の創造性は表現の場を失い、同時に強烈なストレスを感じるのだが、このような幼少期の度重なる経験が大人になってからの自分や他人への不寛容さを生むのである。
ここでよく考えてほしい。
今の世の中に蔓延する「空気を読む」という風潮が、円滑なコミュニケーションや人の創造性にどれだけ制限をかけているかを。
人や自分に対する不寛容さとは、風になびく草花に「規則正しく揺れなさい」と言っているようなものである。
それがどれだけ不自然なことか理解しなければいけない。
私たちは、草花が風に身を任せて揺れるように、人に対しても自分に対しても寛容さを思い出さなければいけない。